自己紹介

狐薊修さんが「ブログは二人によって運営されるだろうと思う」「片割れの私は現在大学院に通っている人間で、社会学を専攻している」と前のエントリーで書いた。そのもう一人である自分のことについて簡単に紹介をしたい。

HNは「あかまい」。意味はない。作家志望のフリーター(半ばヒモ)で、バイトをしたりしなかったり、小説を書いたり書かなかったりする毎日を送っている。狐薊修さんよりひとつ下の、24歳。

10代の頃に某純文学雑誌の新人賞の最終選考の残るものの、自分で納得の行く作品ではないからという理由で辞退。後悔はしていないが、当時が一番"ツイ"ていたように思う。まもなく某大学主催の小さな賞を頂戴する。

大学に入ってからは一切小説を書かなくなり、かといって勉学に励むわけではなく二回生の終わりに中退、現・彼女のアパートに転がり込みヒモ生活を送る。まともにバイトを始めたのはおよそ半年後。彼女の熱心な勧めで再び小説を書くようになり、某新人賞に小説を書いて送るが一次選考も通過せず。事情により、幾たびかの引っ越しを繰り返す。作家を目指すことに疲弊し、正社員を目指すようになる。しかし身体が弱いことがネックとなり、また「やっぱり普通に働くのは嫌だ」という理由で再び(厭々)作家を目指すようになる。

一年前、自信作を某純文学雑誌の新人賞に投稿する。結果は落選。その後色々あって現代の文学シーンに幻滅し(キリがないので理由は書かない)、プロデビューして権威を得たい、評価されたいという気持ちまでもが時間の経過とともに薄まってしまう。生き甲斐を失ったかのように何をすれば良いのか分からなくなる。にっちもさっちも行かない状況が長く続き、抑うつ状態に陥る。

悩んだ末、黒田夏子よろしく細々と散文を書き続けることを心に決める。発表する宛てがなくても構わない、とにかく死ぬまで書き続けなければならない、と。継続は力なりなどという諺を体現したいのではない。ただのフリーターとして生活するのでは決して満足できないから、何か縋りつくものがなければ日々を耐えられない。良いとも悪いとも言えないが、結局のところ、自分は文学(小説に限定しない)以外に生きる糧を見出せないでいる。

あかまいの性格についても軽く触れておく。再び小説を書くよう勧めてくれた彼女曰く、「『神様ドォルズ』の阿幾と似て、信念がなく、依存心が強く、一貫性に欠け、表面上は愛想が良いが本性はひどく露悪的、社会性に乏しく、自分にしか興味がない、自己愛性人格障害のケがある」その通りだと思う。

狐薊修さんと出会ったのは一年以上も前のこと。ごめんなさい、未だに「狐薊」の漢字の読み方を忘れてしまう。愛称はレンちゃん。twitterでとある作家志望(Sさん)に執拗に喧嘩を吹っかけていたとき、突然どこからか現れて会話に割り込んできた覚えがある。かなり汚い言葉でSさんを挑発していたのに、「面白い、そして相手の言葉(論理)の穴を正確に突いて攻撃する」(大意)と褒められ、褒められるのに飢えてる自分は一瞬で狐薊修さんが好きになった。単純だ。もちろんそれだけではない。話をする中で、この人はなんて頭が良いんだろうと目を瞠ることも多々あった。

とはいえ、どこかノリが軽いゆえに、最初は何だか胡散臭い奴だという印象があった。今でも少し思っている(こちらは悪い意味ではない)。狐薊修さんの露悪的な言葉をあまり嫌わないところが珍しくて、本当は内心ドン引きしているのではないかとカマを掛けたことも少なくない。そのたびに粘り強く話に付き合ってくれ、感謝はしていないが嬉しいとは思っている。

このブログは狐薊修さん提案によって生まれた。内容に分かりやすい方向性はない。また二人で書くと言っても共通のテーマがあるわけでもない。まさしく独歩、である。それをなぜ同じ場所で行う必要があるのか、独りで歩くのだったら別々にブログを持てばいいじゃないか、という見方もある。むしろそっちの方が妥当だろう。しかし自分はこう思いたい。テーマは違えども常に互いから視線を逸らすことのできない、この絶妙な緊張を孕んだ距離感からしか生まれない文章もあるはずだ、と。

つまり、「独歩」はひとつの実験だ。