人間関係についての一論考

 人間関係について悩んでいる人は増えている。僕も悩んではいないが、後悔もしていないが、やり直せるなら今のようにはなりたくないと思っている類の一人である。

 人間関係にうまくいかないと思うには暫定ふたつのタイプがあるように思う(このようにカテゴライズするのは僕の職業癖だ)。

 ひとつは他者の反応に対しての予測能力が欠如しているタイプ。このタイプにおいて困難者が生じるのは、やり取りが複雑になっている時代において必然的といえる。こういう人は鬼束千尋が合っているか。

 ひとつは予測能力はあるが、もしくは高くありすぎるために、他者の要求する行為が分かってしまう。しかし、その要求に純朴に沿うことができないタイプ。反社会的とも言われる。椎名林檎に共感しがち。

 自分が社会や人間関係のことを達観していることを自覚、無自覚に関わらず認識できていると傲慢に勘違いしている者が、概して生きにくいなどと言ってみたりする。

 普通、とか一般人とか、そういう言葉を吐くことは、自分がそこにいないと自称することで、それが自己卑下の装丁をしていても、見事に自信過剰なのであるが、とにかくそうした人は「普通」ができない。友達が沢山いる人たちを横目に見やりながら、彼らが「普通」のことを「普通」にできている「一般人」だと考える。

 まあ、僕もそうした自信も自意識も過剰な人間の一人である。タイプとしては後者にいるようで、前者なのかと思う。僕は合理的な人間を自称するから、相手の要求が分かるのであれば利用すればいいと思う。しかし、その利用が上手くいかなくていじけてしまうのである。ちなみに鬼束も椎名も好き。

 ルーマンは愛とは他者のすべてを受け入れることであると言った。他者の世界を受け入れることだと。僕はそれができないのである。何故なら、自意識があるから。他人が好意を向けてくれれば、素直にうれしいと思う。そこまでねじくれているわけではない。けれども、その好意のために相手を好きになるわけではない。僕の中の基準に合致しない限りは好きにはなれない。好意も迷惑だと言ってしまう。

 さて、こうして人間関係は僕の場合、相手が問題なのではなくなった。相手が聖人であろうが、つまらなければ好きにはなれない。この基準と、この基準を維持している基準の基準が問題になっているのである。

 そして、ここで無理矢理に一般化するのであるが、すべて人間関係に難があると思っている人間は、この基準の基準が「普通」ではないのだろうと思う。

 僕の経験上、友人や恋愛などというのはひどく単純で、好意に見合う好意をかえしてやればとりあえずFBに登録できるくらいの関係にはなれるだろう。相手が面倒な奴でなければ、下品でない好意を向ければ、それが学園のアイドルであったとしても、FBの友達登録くらい許してくれるだろう。

 しかし、僕は、そして同様の人たちXもそうではないかと思うのだが、そのような関係に価値を見いだせない。当然、僕は合理主義を自称するので、自分の目的に対して道具的にそうした関係を利用することはある。けれども、僕の目的に合致するような人は別段多くはないのである。とすると、僕は友達が少ないことになる。とても寂しい。

 友人も恋人も、価値なのである。価値を有する一つの資源である。土地や株と一緒だ。友人AとBがいたときに、A>Bの価値であれば、友人Aとより仲良くするものである。非人道的に聞こえるかもしれないが、きっと「普通」でないXはそうなのである。

 すると、人間関係の問題は、主観の問題になり、基準の基準の問題となり、それは価値観と言うことになったのだ。

 女性を恋人にしたいと思うとき、「愛」なるものが芽生えてしまえば、相手の世界を受け入れることなのだから、彼女のすっぴんを見ようが、がさつであることを知ろうが、うんこを漏らそうが、好きという気持ちはあまりゆがまない。

 しかし、「愛」、もしくは「友情」という感情がわくためには、必ずその人と出会う必要があり、出会うことによる印象、交友することによる印象は、必ず「愛」の前に存在するはずである。

 この印象で一定ラインよりもプラスに行けば「愛」が湧くものだと仮定すると、僕やXは常に自分たちの価値観に従って採点をしているはずなのである。

 顔がいい、性格がいい、趣味が合う、などなど、よく聞くこれらはすべてプラス評価を与えるための基準であるのだ。逆にマイナス評価を与えるものも個々人それぞれあるだろう。

 価値観とは、基本的には経験と環境で定まる。散々な家庭で育てば、幻想を持つか、極端に幻想を否定する諦観を持つだろうし、誰かに大変な好意を与えられたならば、人間に対してポジティブな観念を持つか、鬱陶しいという観念を持つだろう。生得的な性格は、誤差程度、この分かれ道を左右すると考えられる。

 そして、価値観は基準の基準であるので、友達がいなくて寂しいと思ったとしても、なかなか改善することは難しい。つまり、Aが好意を示してくれる。Aはこれまでであれば価値なしと思ってしまうような相手であるが、友達が欲しいから、この価値なしという判断の基準を変えようとしても意味がないということである。価値なしという判断をする基準を持ってしまっている基準を変えなくてはならないのだから。

 結論として人間関係に困難を抱える人たちに言えることは、はじめに分類した後者のタイプであれば、諦めましょう、ということになる。本当に嫌だ、と思えば変えられる能力はすでに有しているのだから。前者であれば、残念だというほかない。もしくは、怪しい本が紹介しているような方法を試して、能力をあげるほかない。それくらいの努力はせねばならない。人間は平等であるべきだろうが、平等に能力が振り分けられているわけではないのだから。

 だからこそ、我々は「生きづらい」とか、エヴァのシンジ君に共感したりする。マイノリティを気取ることは心地よい。悲劇のヒロインは、白馬の王子様を待つことができる。

 ただ、マイノリティはマイノリティでつながる可能性は残っているだろう。そして、この場合、このマイノリティは数としては決してマイノリティではないはずだ。傷をなめ合う快感を得られるのは我々に与えられた利点である。

 もしかしたら白馬の王子様、シンデレラが現れるかもしれない。それを期待して呪いの中で深い眠りにつくのも、空しいダンスを踊るのもありである。

 僕に限れば、呪いで苦しむのも、ダンスを踊る力もないので、黄ばんだ布団の上で待っていることにしよう。大胆に不法侵入してきて、キスをしてくれる誰かを。

  

 

自己紹介

狐薊修さんが「ブログは二人によって運営されるだろうと思う」「片割れの私は現在大学院に通っている人間で、社会学を専攻している」と前のエントリーで書いた。そのもう一人である自分のことについて簡単に紹介をしたい。

HNは「あかまい」。意味はない。作家志望のフリーター(半ばヒモ)で、バイトをしたりしなかったり、小説を書いたり書かなかったりする毎日を送っている。狐薊修さんよりひとつ下の、24歳。

10代の頃に某純文学雑誌の新人賞の最終選考の残るものの、自分で納得の行く作品ではないからという理由で辞退。後悔はしていないが、当時が一番"ツイ"ていたように思う。まもなく某大学主催の小さな賞を頂戴する。

大学に入ってからは一切小説を書かなくなり、かといって勉学に励むわけではなく二回生の終わりに中退、現・彼女のアパートに転がり込みヒモ生活を送る。まともにバイトを始めたのはおよそ半年後。彼女の熱心な勧めで再び小説を書くようになり、某新人賞に小説を書いて送るが一次選考も通過せず。事情により、幾たびかの引っ越しを繰り返す。作家を目指すことに疲弊し、正社員を目指すようになる。しかし身体が弱いことがネックとなり、また「やっぱり普通に働くのは嫌だ」という理由で再び(厭々)作家を目指すようになる。

一年前、自信作を某純文学雑誌の新人賞に投稿する。結果は落選。その後色々あって現代の文学シーンに幻滅し(キリがないので理由は書かない)、プロデビューして権威を得たい、評価されたいという気持ちまでもが時間の経過とともに薄まってしまう。生き甲斐を失ったかのように何をすれば良いのか分からなくなる。にっちもさっちも行かない状況が長く続き、抑うつ状態に陥る。

悩んだ末、黒田夏子よろしく細々と散文を書き続けることを心に決める。発表する宛てがなくても構わない、とにかく死ぬまで書き続けなければならない、と。継続は力なりなどという諺を体現したいのではない。ただのフリーターとして生活するのでは決して満足できないから、何か縋りつくものがなければ日々を耐えられない。良いとも悪いとも言えないが、結局のところ、自分は文学(小説に限定しない)以外に生きる糧を見出せないでいる。

あかまいの性格についても軽く触れておく。再び小説を書くよう勧めてくれた彼女曰く、「『神様ドォルズ』の阿幾と似て、信念がなく、依存心が強く、一貫性に欠け、表面上は愛想が良いが本性はひどく露悪的、社会性に乏しく、自分にしか興味がない、自己愛性人格障害のケがある」その通りだと思う。

狐薊修さんと出会ったのは一年以上も前のこと。ごめんなさい、未だに「狐薊」の漢字の読み方を忘れてしまう。愛称はレンちゃん。twitterでとある作家志望(Sさん)に執拗に喧嘩を吹っかけていたとき、突然どこからか現れて会話に割り込んできた覚えがある。かなり汚い言葉でSさんを挑発していたのに、「面白い、そして相手の言葉(論理)の穴を正確に突いて攻撃する」(大意)と褒められ、褒められるのに飢えてる自分は一瞬で狐薊修さんが好きになった。単純だ。もちろんそれだけではない。話をする中で、この人はなんて頭が良いんだろうと目を瞠ることも多々あった。

とはいえ、どこかノリが軽いゆえに、最初は何だか胡散臭い奴だという印象があった。今でも少し思っている(こちらは悪い意味ではない)。狐薊修さんの露悪的な言葉をあまり嫌わないところが珍しくて、本当は内心ドン引きしているのではないかとカマを掛けたことも少なくない。そのたびに粘り強く話に付き合ってくれ、感謝はしていないが嬉しいとは思っている。

このブログは狐薊修さん提案によって生まれた。内容に分かりやすい方向性はない。また二人で書くと言っても共通のテーマがあるわけでもない。まさしく独歩、である。それをなぜ同じ場所で行う必要があるのか、独りで歩くのだったら別々にブログを持てばいいじゃないか、という見方もある。むしろそっちの方が妥当だろう。しかし自分はこう思いたい。テーマは違えども常に互いから視線を逸らすことのできない、この絶妙な緊張を孕んだ距離感からしか生まれない文章もあるはずだ、と。

つまり、「独歩」はひとつの実験だ。

独り歩き

 少し寂寥なタイトルをつけたかった。ただ単に、かっこいいからである。

 未だに14歳の病から抜け切れていないままに、もうすぐ20代の半ばを迎える。時の流れが早いと言うべきか、大人になることが難しいと言うべきか。とにかく、僕には独歩という言葉に、寂しさと、気高さが含まれている気がした。

 ブログは二人によって運営されるだろうと思う。片割れの私は現在大学院に通っている人間で、社会学を専攻している。ブログを始めることの言いだしっぺなものだから、ある程度、ここの説明をはじめにしておいた方がいいのかもしれないと思った。

 考えたことや見たものを、それが意味ありげな自己開陳であるとしても、書いていければいいと思う。これを巷でよく言っているような自己満足だとは形容しない。読んでもらえる形にしている以上は、自己満足ではありえない。それは独りで満足できるものではない。単なる自開癖である。そのために、僕は読者を想定し、読者は僕にあらゆる感情を応答する権利があると思う。つまり、自己満足でやっているのだから勝手に好きなことをさせておけ、とは言わないということだ。

 ブログを始めたかったのは、Twitterの140字の世界に飽きた上で、それでも何か自分に課された文章ではない、自由な文を書きたいと思ったからだ。僕は小説家を目指し、断念している身の上で、文字を書くことは憧れであり続けている。これもまた、14の病の延長だろう。何か思いつきの思考も、直観的に共有したい映像も、Twitterでは勢いが強すぎて、他人の眼からも、自分の記憶からも、すぐにそれらが消え去っていく。もう少し、自他ともに、もしくは主客ともに、味気のある文章が書きたかった。

 今回は初めだから、一応気品を持たせたいと願った。けれども、すぐに低俗なものへと堕ちる気はしている。だから、そこまで自分も、そしていないかもしれない想定された読者も、気負う必要はないだろう。

 

 独りで歩くということは、時に雑多な喧噪の中で、それが文字通り雑音に聞こえてくることであり、時に静寂な田園の中で「自然」から見透かされていると感じることである。そこにあるのは圧倒的な孤独であり、自分の見知ったものは、自分の意識と身体だけである。そういう独り歩きを始めることが、そして続けることが、自分の軌跡を印象深くし、どこか目的の場所へと近づいていくことなのだと、僕は思う。

 

狐薊修