独り歩き

 少し寂寥なタイトルをつけたかった。ただ単に、かっこいいからである。

 未だに14歳の病から抜け切れていないままに、もうすぐ20代の半ばを迎える。時の流れが早いと言うべきか、大人になることが難しいと言うべきか。とにかく、僕には独歩という言葉に、寂しさと、気高さが含まれている気がした。

 ブログは二人によって運営されるだろうと思う。片割れの私は現在大学院に通っている人間で、社会学を専攻している。ブログを始めることの言いだしっぺなものだから、ある程度、ここの説明をはじめにしておいた方がいいのかもしれないと思った。

 考えたことや見たものを、それが意味ありげな自己開陳であるとしても、書いていければいいと思う。これを巷でよく言っているような自己満足だとは形容しない。読んでもらえる形にしている以上は、自己満足ではありえない。それは独りで満足できるものではない。単なる自開癖である。そのために、僕は読者を想定し、読者は僕にあらゆる感情を応答する権利があると思う。つまり、自己満足でやっているのだから勝手に好きなことをさせておけ、とは言わないということだ。

 ブログを始めたかったのは、Twitterの140字の世界に飽きた上で、それでも何か自分に課された文章ではない、自由な文を書きたいと思ったからだ。僕は小説家を目指し、断念している身の上で、文字を書くことは憧れであり続けている。これもまた、14の病の延長だろう。何か思いつきの思考も、直観的に共有したい映像も、Twitterでは勢いが強すぎて、他人の眼からも、自分の記憶からも、すぐにそれらが消え去っていく。もう少し、自他ともに、もしくは主客ともに、味気のある文章が書きたかった。

 今回は初めだから、一応気品を持たせたいと願った。けれども、すぐに低俗なものへと堕ちる気はしている。だから、そこまで自分も、そしていないかもしれない想定された読者も、気負う必要はないだろう。

 

 独りで歩くということは、時に雑多な喧噪の中で、それが文字通り雑音に聞こえてくることであり、時に静寂な田園の中で「自然」から見透かされていると感じることである。そこにあるのは圧倒的な孤独であり、自分の見知ったものは、自分の意識と身体だけである。そういう独り歩きを始めることが、そして続けることが、自分の軌跡を印象深くし、どこか目的の場所へと近づいていくことなのだと、僕は思う。

 

狐薊修